VLOG|石川県金沢市のデザインチーム「ヴォイス」 ホームページ作成やCMの企画制作をはじめNPOタテマチ大学を運営

VLOG

PROFILE

宮川真也
株式会社ヴォイス 代表取締役

クリエイティブディレクター

タテマチ大学/NPO金沢マチ
ナカ大学 代表理事

MESSAGE200

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思考停止。

一見してきれいな言葉は

人の思考を停止する。

たとえば

自由という言葉は
正しさの象徴である。

自由がダメだとは誰も言わない。

文句のつけようがないものとして

不問に付すというか
そこに議論の余地がない。

「自由は権利だ。自由を謳歌して何が悪い」

それをもって

自由とは何かという議論を要しない。

結果、自由は誤って解釈されている。

「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」

それが大方の考える「自由」である。

だから社会がおかしくなる。

人に迷惑をかけないわけだから

やってはいけないクスリに手を出すもよし。

小遣い稼ぎに売春するもよし。

企業家は法の隙間をかいくぐって金を儲けてよい。

そういうことになる。

「私の勝手じゃないか」という。

思考を止めると「自由」は「私の勝手」になる。

ちなみに「勝手」の意味はこうである。

”他人のことはかまわないで自分だけに都合のいいように振る舞うこと”

それが思考停止の果ての自由ということだ。

考えることは言葉を探すこと。

言葉が貧弱だと

自分の考えも貧弱になる。

言葉がありきたりだと

自分の考えもありきたりになる。

言葉を探す=考える。

たとえば

自分がしゃべっている様子を
思い浮かべてみる。

頭のなかにあるぼんやりしたものを

「もっと適切に言い表したい」
と言葉を探しながらしゃべっている。

自分の考えていることや

頭のなかでモヤモヤとしていることを
最もふさわしい言葉で表したいと。

どんなすばらしい考えも

おもしろいアイデアも
回答も研究成果も
すべては言葉という出口を通る。

言葉が貧弱だと損をする。

言葉の貧弱さとは

自分の言葉をもたないことだ。

自分の言葉をもたないということは

自分の考えをもたないということ。

“考え”のない会社は選ばれない。

付加価値をつけなさい、という。

ごもっともである。

ごもっともだけど、

もはや商品サービスそのものの
価値を競い合っても意味がない。

コモディティ化。

どんな業界の商品もサービスも

いくらがんばって価値をつけても
もう差別できない。

区別できない。

だって、みんな美味しいのだから。

みんな高品質だし

デザインもいいし
価格もがんばっている。

いま、お客さまは何を買っているのか。

商品やサービスの価値を買っているのではない。

会社やお店の価値を買っている。

価値観=こだわりを買っている。

その会社やそのお店の考え方を買っている。

“考え”のない会社は選ばれない。

価値観をもたないお店は選択されない。

VOICEのやっている商品開発の仕事は

その商品を提供する会社やお店の価値観をつくること
といってもいい。

どうやったら売れるか?

という目線で商品をいじっても結果は変わらない。

会社やお店の“考え”を明らかにする。

商品やサービスを通じて“考え”を表明する。

そういう商品開発をお手伝いしている。

人の話を聴ける人。

ときどき講演をさせてもらって思うのだけど、

立派な人ほど真剣に話を聴いてくださる。

こちらが恐縮してしまう。

その人のすばらしさは話を聞く態度でわかる。

だれからでも、どこからでも、学ぼうとする。

「自分より劣った人間だ」

「その話はもうわかってる」

そういう傲慢さがない。

読書もそうかもしれない。

どんな本を読んでも

かならず学ぶべきことが書いてある。

「程度の低い本だ」

ツマラナイと一蹴するのはむずかしくない。

たとえそうだとしても

「どこか学ぶべきところやよい点があるのでは?」
と考えて読む人には
なにかしら得るものがあるはずだ。

どんな本でも、どんな人の話でも、

「なにか学べることがあるのではないか」
と考えながら見聞きする。

それができる人は

人のよいところを見つけられる人だ。

人を褒めることのできる人だ。

だから、すばらしいと感じる。

他者から学ばず

部下から学ぼうとせず
人のよいところを見つけられない人は
いくら実績のある社長さんでも
あまり魅力を感じない。

そろそろ視座を全体のほうへ。

めざしているのは全社最適です。

部分最適全体不適では意味がない。

だから

部分(個人や部署)の最適化しか
興味のない人はむずかしい。

視点を変えなくちゃいけない。

全体(全社)の最適のために個人がいる。

自分にあたえられたことだけ?

個人として最善をつくせばよい?

そういう視座だと

けっきょくのところ
個人としての発展も望めない。

部分(個人)があって全体(全社)がある、

という考えをあらためたほうがいい。

全体(全社)があって部分(個人)がある、

という視座でものごとに取り組むと
個人に返ってくるものも良いものに変わってくる。

部分か。全体か。

どちらが正しいかは

その環境、その組織、その規模、その体質によって
それぞれ異なるかもしれないが、
まずは全体があって部分があると考えるべきかと思う。

個人がどんなに善くても

全体として悪ければ
なにも成せないのだから。
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